シャルロットゲンズブール「小さな大人」−フランソワトリュフォーによる遺稿。『なまいきシャルロット』のクロードミレールに

よる監督。そして今、セルジュゲンズブールとジェーンバーキンによる「小さな傑作」は真の女優への道を歩き始めた

シャルロットゲンズブールからは不思議な存在感が発散している。彼女を演出した監督たちは彼女には教えることが何も

ないと舌を巻く。そしてクロードミレーユは彼女と出会って新しいエモーションを発見した。そう、魅力という名の。

「小さな泥棒」は映画を観る喜び、欲望を味わわせてくれた、今ではすっかりなくなって忘れ去られてしまったあるタイプの

映画にめぐりあったような気になる作品である。このなつかしい香りは繊細さとやさしい慎みと、そして怒りと渇望から発する

ものであり、もちろん、フランソワトリュフォーが私達に教えてくれたものなのだ。トリュフォーのシノプシスをもとにミレーユ

が作り上げた「小さな泥棒」の価値もまず第一にその香りであり、原作者トリュフォーのエモーショナルな性質を少しでもそこ

なってはいない。

ミレーユにとっては、彼のキャリアにこうしるされることになる出会いとなったーシャルロット以前の彼、シャルロット以降の彼、

と。この天才女優の発見は、彼の内部に目に見えるほどの動揺を与えた。まるで鎧に身を固めた騎士が突然、武器を地面に

投げ捨ててしまったように、もう後戻りできないのだ。ミレーユの映画のなかのシャルロットが感動的なのは、まず彼、ミレーユ

自身が彼女に感動しているからであり、この感動を注意深くとらえた彼が、そのまま手を加えずに私達に再現してみせてくれる

からだ。

「なまいきシャルロット」での最初の驚きの後、彼等ふたりは共犯関係というか、より複雑なつながりで結びついている。彼等の

映画は、この新しい信頼関係の恩恵を受けている。シャルロットはすでに「才能ある無垢な少女」ではない。女優という仕事に

対するわずかな考えの変化も、危ういバランスを崩すことになる。「小さな泥棒」ではステイタスを変えた。天才少女は女優と

なった。そのことで彼女の演技からもし一瞬の間でも新鮮さが失われたとしても、そこには深みが加わっているのである。

それこそ、経験と呼ばれるものだ。そう、シャルロットにとって、ひと月ひと月が成長の重要な過程なのだ。


シャルロットの母、ジェーンバーキンはためらいもせずにきっぱり言った。「私はシャルロットのような慎み深さって大切だと

思うわ。彼女はすごく恥ずかしがり屋だし、自分のことをべらべらとしゃべるような人を嫌っているのよ。多分、彼女は映画作り

を続けて行き、映画を通して自分のことを表現していくのではないかしら」

シャルロットの最大の秘密とは今や公然の秘密となっている彼女のその才能だろう。それを疑う者は誰もいなかった。

「なまいきシャルロット」で共演した名優ジャンクロード・ブリアリも”ジェーンが内気と控えめと知的に輝く目を与えた小さな

娘”についてこう語る。「僕が彼女に注目したのはエリーシュラキ監督の残り火だった。とてもうまい子だと思ったよ。だけど、

彼女と共演するまで彼女がこれほどの魅力と強さと才能を持っているとは思いもよらなかった。まずなによりも彼女にはパー

ソナリティがある。彼女はママからバレリーナのような動き、とても軽くて美しくて自然な優雅さのある動きを受けついでいるん

だ。そして、彼女には子供だけに具わっている集中力のようなものがある。1テイクを撮り終わるとうまくいったかどうかを知ろ

うと、まるで子鹿のように脅えた目でみつめるんだ。と同時に、彼女には女の子らしい誇りも持っていて、自分がどう見えている

か、何をしているかがわかっている。シャルロットには本当にわずかな人間しか持っていないような、内面の強さがあると思う。

彼女は内気だけれど、馬鹿げたことを喋るのがこわいから黙っているんじゃないんだ。彼女は自分の世界をもっている、自分

のイマジネーションを、自分の情熱を持っているからなんだ。白い馬に乗った王子さまが現れるのを窓辺でじっと待っているよ

うな娘じゃない。自分の人生があるのさ、シャルロットには。それを歩んでいるんだけど、ただ人目につかないだけなんだよ」

エリーシュラキの残り火では、シャルロットはキャスティング段階で候補にあがっていた十数人の少女たちを圧倒してデビュー

した。シュラキはシナリオを一部書き直した、彼女に合わせて。シュラキは言う、「俳優に合わせて役を書き換えるというのは

いつもやっていることなんだ。ただ、その時は特にその役が彼女には窮屈な感じがしてきたから。それに、彼女が役をふくらま

せてくれるだろうと感じたしね。カメラの前では子供は皆そうなんだけど、演技をするのを一種のゲームにしてしまう。ゲームと

いうのは遊びという意味でだ。彼女にとってもそうだった。けれど、その一方で彼女は自分のしていることにとてもはっきりした

自覚を持っていた。シーンを知的に理解していたよ。撮影に入ると、僕と彼女の関係はまるで大人同士とそれと変わらなかった。

どんな演技の注文を出しても、すぐに反応し、分析し、理解するんだ。彼女はミステリアスな魅力ってものを、話し方とか髪の毛

で隠すとか、演技で表す方法を知ってるんじゃないかと思うね。女優と呼ばれてる人たちはシャルロットを見習うべきだ。彼女に

は昔のスター達が持っていたような神秘性があるよ。今の女優たちに一番欠けているのがそれ、神秘性だと僕は思っている。

僕が彼女を選んだとき、彼女に他の少女たち以上の才能があるなんて思いもよらなかった。だけど、彼女には才能があったんだ」


シャルロットの出演第2作目であり、初の主演映画となった「なまいきシャルロット」で、彼女は真実、演技に開眼した。撮影スタ

ッフ達と協力して映画を作る楽しさが、演技自体を味わうという本物の喜びに変わったからだ。主役にシャルロットを選んだ監督

のミレーユは、スイスの学校まで彼女に会いに行った。それも何度も。

「僕に馴れてもらうためにね。そして、彼女が僕のことをよく知ってくれて、友達のように思ってくれるように。なまいきシャルロット

での彼女が良かったか悪かったか、というのは僕の問題だったけど、次の小さな泥棒では違った。それは彼女の映画にもなって

いたんだ」

シャルロットに芽生えた演技に対する新しい欲望こそ、ジェーンバーキンがまず最初に強調しておきたいことらしい。

「シャルロットはいったん始めたことは最後までしないと気がすまない性格なのね。彼女は自分が何をしたいのかはっきり分かっ

ているし、それをもっとうまくできると思っているのよ。もっとうまくできない位ならしない方がいい、なんて考えてるんじゃないかしら」

アニエスヴァルダの「カンフーマスター」はジェーンのアイデアがもとになった作品だが、現実の母娘であるふたりが現実と同じ

役を演じている。「私が庭で15歳の少年と抱き合っているのを彼女が見てしまうというシーンがあったの。娘は母親を見て傷つ

いて嘲笑するはずだった、ところがそのシーンの撮影になる、シャルロットの反応はすばやくしかも予想以上に激しかった。傷つ

いて崩れ落ちそうで。アニエスはもう1回撮り直しするか迷っていたわ。彼女がショックを受けるんじゃないかと思ってね。でも、

本当は大丈夫だったのよ。いろんな理由で同じシーンを翌日と翌々日に取り直したんだけど、どれも素晴らしかったわ。結局、

アニエスは最初のテイクを選んだの。それには最初だけにある魔力があったから」


フランスで最も有名な17歳、シャルロットゲンズブールは少女でもあると同時にひとりの女優であり、映画から映画へ彼女の

身長とともに才能が伸びて行くのが見える。だが、彼女自身については、映画の役ほど明らかではない。彼女はおしゃべりは

得意ではないからだ。シャルロットを知るには、彼女の沈黙に耳を傾けなければならない。表情を読み取り彼女の慎み深さの奥

を感じ取るのだ。「万引なら私も経験があるわ。でもジャニーヌみたいにスリルなんて感じなかった。ただ怖かっただけ」

「小さな泥棒」でシャルロットの演じたのは第二次世界大戦直後、フランスの田舎町に住む非行少女ジャニーヌである。シナリオ

を受け取ってから彼女はどんな準備をしたのだろう?

「準備なんかしないわ。シナリオをもらったら読むだけ。本を読むみたいにして。もちろん自分を役柄にあてはめたり、台詞に

注意したりはするけど」

シャルロットは撮影に入る前にミレーユと何度かシナリオの読み合わせをしている。

「読み合わせはしたわ、二度。でもそれは、むしろ内容を見当し、よりよく知るための練習のようなものだと思う。それに撮影の

ときのように演技をしろと言われるわけじゃないもの。椅子に座ってシナリオを読むっていう、いわゆる本読み」

「小さな泥棒」の撮影ではシャルロットとミレーユの間には暗黙のうちにコミュニケーションが成り立っていた。

「変わったといっても、私が大きくなったから、クロードもそのように話しかけてくれただけ。俳優の演出っていうもの、本当の

こといって私にはまだよくわからないわ」

a petite janineージャニーヌ役を演じるため、シャルロットは他の映画への出演依頼を断っている。それはベルトランダヴェル

ニエの作品だった。「断ったのは母よ。それはジャニーヌ役が私にとって本当に大切だったからなの」

「小さな泥棒」はミレーユにとっては長編第6作目にあたる。監督デビュー以来12年で6本というのは決して多い数ではない。

だがミレーユは1本として駄作を作らなかったといいたい。彼の長編第一作「一番うまい歩き方」からすでに彼はひとつのスタ

イル、視点、登場人物と雰囲気作りに鋭いセンスを示していた。つまり非常に個性を持った才能だ。たとえ「愛してると伝えて」

が観客を当惑させたとしても、「死への逃避行」が期待されたほどヒットしなかったとしても映画ジャーナリズムの評価は常に

最高だった。そして、もちろんあのすばらしい「仮拘束」がある、そして「なまいきシャルロット」でひとりの監督とひとりの女優

が魔法のように出会い、この魔法は再び「小さな泥棒」でも働いたのである。ミレーユは言う、「トリュフォーは死ぬまで「小さな

泥棒」を自分で撮りたがっていた。「日曜日が待ち遠しい!」の後で撮ろうとしていたようだった。この企画を僕に提案してきた

のはフランソワではなく、クロードベリなんだ。フランソワは死ぬ前に彼に2本のシナリオを託した。ひとつはこの「小さな泥棒」、

もうひとつは「マジックエージェント」という題だった。彼がなくなって年たった頃、ベリが読んで欲しいといって、「小さな泥棒」

のシナリオを持ってきたんだ。このテーマは僕向きだと言ってね。確かに彼は正しかったよ。それを読んですぐ、雷に打たれ

たような衝撃を感じたんだから。その後でフランソワがどの点でこのシナリオを全生涯にわたって肌身離さず持ち続けたのか

が分かった。このシナリオをフランソワと一緒に書いたクロード・ド・ジヴレーが教えてくれたんだけど、この映画の中心となる

ジャニーヌという主人公は初めは「大人は判ってくれない」のために彼が創った人物なんだそうだ。アントワーヌドワネルと共

にジャニーヌはもうひとりの主人公になるはずだった。オリジナルの「大人は判ってくれない」ではひとりの少年とひとりの

少女のストーリーが平行して語られていたんだ。結局、彼はジャニーヌの方をあきらめてしまったけれど、考え続けるのは

やめなかった。彼は思いついたアイディアを書き留めたノートをためていて、ときどきド・ジヴレーにシナリオを書き直そうと

声をかけていたんだ。彼がなくなったときには本物のシナリオが遺されていた」

だが、トリュフォーが遺したそのシナリオを使ってすぐ撮影に入ることはできなかったようだ。「いや、全く無理だね。シナリオ

といっても40ページのものだ。フランソワなら多分それで撮っただろう。それ以上に書き込む必要もなかったと思う。なぜかっ

て、彼は台詞だけは翌日の撮影分を前の日に書くからなんだ。その方法を彼はよく使っていた。僕が読んだ
シナリオには材

料はすべてそろっていた。プロットも、登場人物も、構成もね。従って、僕は非常に忠実にそれを利用した。
何も付け加えてい

ない・・・、そうだ、ひとりいるぞ。あるエピソードを僕がちょっとふくらましたんで、劇の進行上の都合
からラスト近くでひとり人物

を付け加えたっけ・・・」
シナリオを読んで、ミレーユが一番魅力を感じたテーマ。「それは、ジャニーヌのあだっぽさの芽生えと

フランソワが
ちょっと控えめに表現しているものなんだ。言い換えれば16歳の思春期の少女が大人の女としてめざめていくこ

とだ。
それを彼は激しく、かつ純真に描くことを要求していた」

この映画のもうひとつのテーマは非行である。ジャニーヌは自分では盗みをやめることができない。それについてミレーユ

は言う、「そう、確かにそうだ。けれど、彼女の非行の裏側には愛情に対する大きな飢えがあると思う。盗癖と
同じくらいそれは

重要だよ。実際にはこの小さな泥棒の物語の向こう側に、シナリオの最初から最後まで一環している
あるステキな考えがある

んだ。フランソワが要約して言っている、思春期の少年少女達で感動的なのは、彼等のする
全てが初体験であるということだ。と」

だが、しかしどうやって16歳の少女の心理に入り込んだんだろう?

「まず、「なまいきシャルロット」のときもそうだったけど、「小さな泥棒」のシナリオも妻のアニーと一緒に書いていったんだ。

だから、妻の意見が基礎になっている。それに、シャルロットがジャニーヌ役になると分かっていたからね。彼女
とは3年来の

つきあいだし、彼女のことはとってもよく分かっているから、それが口ではいえないほどの助けになってた
と思う」

シャルロットはジャニーヌの性格に何か自分の意見を出したりはしなかっただろうか?

「いや、でも、ジャニーヌの性格設定で彼女の気に入らないところがひとつあったよ。それはジャニーヌが無教養で難しい言葉

が分からなかったりするところだ。彼女が使う言葉だと”アホ面”かな。頭が悪いと思われるのが嫌だったんじゃ
ないかな」

シャルロットの方はジャニーヌという少女のイメージをつかめたのだろうか?

「いつもそんな質問ばかりよ。私はいつも役のことだけ考えてるわけじゃないわ。あるシーンを演じるには、そのシーンのコンテ

クストに沿って考えはするけど、全部が全部理解できてるわけじゃないもの。確かに自分なりにちょっとだけイメージ
は持って

るけど、そんなの重要とはいえないし。それに役の性格をこうだって決め付けてしまうのは好きじゃないの。
他人の誰かになっ

てしまうことに慣れればいいのよ。そうしたら撮影のたびに役になる努力をする必要がないでしょう。
無意識だから」

非行少女の役はエキサイティングではなかったか?

「そうねぇ、登場人物の中に入るって言葉があるわ。たぶん、その必要はないし、頭の中で役に入る準備をする、なんて一度も

やったことない」

シャルロットの演じるニュアンスに富んだジャニーヌについて、ミレーユは語る。「彼女は自分のパーソナリティを表現したんだ。

彼女が与えてくれるものは言葉では表しようがない。彼女の映画的天才、リズム、声・・・かな。彼女とだと
すべてがちょっとあい

まいになる。紙の上で書かれていたときはそれほどでもなかったシーンが、彼女が演じると絶妙
になる。それこそ、偉大な俳優

のすばらしいところだと思う。僕の記憶では、「一番うまい歩き方」のパトリックドヴェールが
そうだった。彼が演じた役はシナリオ

を超えていたよ。「仮拘束」ではロミーシュナイダーが出てくれた短いシーンがロミー
のおかげで魅力を放っていた。こういった

付加価値というのはほんとうに説明しにくいね。スクリーンに映されると物事が
それ以上に見える。もっと軽々と、もっとあいまい

に、もっと不思議に。それが人を魅きつけるっていうことかな・・・」

そのシャルロットを前にして、電撃的なショックを受けたほど魅力のある映画を撮るならば、彼女にやりたいようにやらせ、それ

をただ眺めていたいという誘惑にかられることもありそうだ。

「「なまいきシャルロット」のときはそんな気は起こらなかったけど、この映画のときには確かにあった。シナリオも状況設定も

台詞もあって、撮影前にはよく話し合った。そして撮影の段になって、彼女をひとりの観客の眼で見てしまうと
いうことが起こって

しまう。ただ、シャルロットには演技指導というものはそんなに必要じゃないとは言っておきたいね。
というのは、彼女は信じられ

ないくらい正確だし、取り直しをすることなんてほとんどないんだから」

シャルロットを媒介にして、ミレーユは女性に対する見方ではなく彼の考える女性像を創っている。その女性像がシャルロット

自身がどうか、それはもちろん言葉で表しようのないものであるが。

L'observation,l'attentionー「観察力と注意力、この二つが映画監督にとって最も重要だ」とシャルロットは言う。カメラが回って

いるとき周囲の注目が集中していることが彼女に分かっているだろうか?「あまり言いたくないのよ・・・」
とシャルロットはためら

いー「そう、何度もクロードに、私をよーく見てね、って頼んだわ(笑)。映画監督にそんなお願い
をするのはイヤだけど、彼には

正直に意見を言って欲しかったの。でも本当は信じてなくて、お願いしても私を見ててなんて
くれないんだからって思ってた。

だから、それは私が彼を見てるって思いこむためなの。よくカメラが近いところで演技を
すると、カメラのしたに座って、彼がうな

ずいているのが見えるわ。彼がどこを見ているか私にはよく分かる・・・」

監督の注意をひきたいと思ったのはこの映画がはじめてのことだった。「そうね、だってクロードはとってもよく知っている人だか

ら。そうじゃなけりゃ、そんなこと頼みもしなかったわ。でも、すごくよく分かっていたから、なんでも言ってみる
ことができたのね。

でも、本当のこと言って、何人もの俳優さん達に同時に注目できるなんて、私にはとっても信じられない
けど・・・」


ミレーユとシャルロットをつなぐ信頼と共犯関係は、たとえばフランソワトリュフォーとジャンピエール・レオーのそれを連想させ

る。「「なまいきシャルロット」の以来、お互いに慣れ親しんできたせいか、シャルロットには僕の望むことが本能的に
分かってし

まう。僕は僕で彼女の望むことが本能的に分かるんだ。だから、口に出して説明するということはそれほどない」
とミレーユは言

う。「「小さな泥棒」では、ときどき僕がシーンを見た印象を話そうとすると、彼女は「はいはい、赤ちゃんに
話すみたいに言わなく

ても分かってるわ」って言いたそうな目でじっと僕を見てるのさ。彼女とだと「枕を高くして眠れる」よ、
本当に。彼女には女優の血

が流れているんだ。まるで少年のモーツアルトがピアニストだったみたいに。彼女は女優だ。
それが彼女の第一性質であって、

彼女の才能なんだ。彼女は自由に演技を作曲する。そしてそれがいつも正しいんだ。
そのうえ、カメラの前では基調となるA音

を出して、合奏の音を合わせるのが彼女のように見える。彼女が音叉を鳴らすと
他の共演者たちが自分の楽器の音を彼女に

合わせるみたいに・・・」

シャルロット自身は自分の演じたシーンを後悔したりはしないのだろうか?

「「小さな泥棒」については答えられないわ。だって、まだ完成した映画を観てないから。でも、もし見たとしたら絶対後悔するわ。

だって、撮影の時に好きでないとこがいくつかあったもの」

たとえばそういう場合、もう1回撮りなおしをしたい?

「撮りなおしってあんまり好きじゃない。こわいから。もし撮りなおしを
して下さいって頼むと皆の注目が集まってくるでしょ。そこ

でミスしたら・・・。自分で頼んだのならミスしちゃいけないもの。
でも、自分ではちっともうまくできたと思えないのに、OKとかよか

った、とか言われてびっくりしたことがときどきあったわ。
その前までは、たぶん撮影自体を意識してたんだと思う。演技じゃなく

て。あんまりよく考えもせずにやっていたのね。今は
演技をすることが楽しく思えるようになった。以前は私の喜びは撮影現場に

いることだった。今ではうまく演じたいって
思う。そのことが私にはとっても大事なことになったし、つまり、私の求めるものがふえ

たってことね」

ジェーンバーキンはシャルロットが「残り火」に出演することになったきっかけを、その頃、ジャックドワイヨンが準備していた

「ラ・ピラート」に出てみたいような素振りだったからだという。「ええ、母は紙に「面接に行ってみたら」って書いといて
くれた。

だから行ってはみたけど、本当に出る気はなかったわ。キャスティングをするためだけ。「ラ・ピラート」では本当に
女優をした

いという気持ちはなかった。でなければ、実際にキャスティングで選ばれた子(ロールマルサック)にジェラシー
を感じたりする

はず。でも実際には、映画監督に自分を見てもらいたいと思ったというところよ。今まで大変だった映画は
3本、「なまいきシャ

ルロット」「シャルロットフォーエバー」、とこの「小さな泥棒」。どれも学校がバカンスのときに撮影を
あててたの。「小さな泥棒」

は学期にちょっとだけかかってしまったけど、でも学校に戻る前に1日だけロンドンに行けて
嬉しかった。「小さな泥棒」の撮影

の2ヶ月間って学校生活とは全然違った雰囲気のなかで過ごしたわけだし、両方を
きちんと分けて考えなければいけないと

思ってた。「小さな泥棒」の後のこと、そんなことまでは考える必要がないと思う」

もし、映画に出ないことにしたら、演技が恋しくなるだろうか?

「それは言いたくない。どんな感じかはよく分かっているけど、言いたくはないの」

ミロスフォアマンは新作の「Valmont」に彼女を出したいと考えていたという。

「そんな話しは嫌いよ!これこれの映画に出るはずだったとかってもううんざり。そんなこと言って何になるの・・・」


シャルロットには才能がある、純粋さと自然さがある、と同時に、優柔不断に陥ってしまう危険を避けるだけの知恵も身に付

けている。彼女がどんなに素晴らしい映画人生を歩むかは今から約束されたようなものだ。クロードミレーユは
幸運だった。

このような才能の芽生えと、続いてその開花を映画に記録するチャンスにめぐり会うことは滅多にないから
だ。「小さな泥棒」

のエンディングは開けれていて、続編が作られるのではないか、という期待を持つ。

「開かれた終わり方というのは、この年頃の少女のストーリーには自然だと思う」とミレーユ。「フランソワのシナリオよりはチャン

スを与えた終わり方にしたんだ。ジャニーヌは小さなカバンを持って旅立つ、というふうにアレンジした。たぶん
彼女は写真の

基礎を学んで、写真家になるだろう・・・。それから続編の話しだけど、それは全くNOだね。考えたことも
なかった。「なまいきシ

ャルロット」のときには考えたよ、ストーリ−も無理がないし、シャルロットを撮りたかったし。撮り
終わるやいなや、彼女ともう

1本撮りたいと思ったんだ。その願いは今、「小さな泥棒」でかなえられたのだから